MISSION 07

24 OUR TELEVISION

あらかじめ記憶された物語たちへ

24 OUR TELEVISION、なんでもないたった一日の24時間が、あなたにとっての素敵な24時間でありますように!―――ナデガタ・インスタント・パーティによる24 OUR TELEVISIONの放映が終わる瞬間の鮮烈な映像が目に焼き付いて離れない。仮眠を挟んで夜通しの睡眠不足と疲労を体に感じながら視界がぼんやりとしていたのは覚えているけど、その瞬間はもしかするとホンモノの24時間テレビ以上に興奮と感動のラストシーンだったのかもしれない。平気で番組が差し替えられたりスタッフがその場で交替したり、破綻がどこかしこに見つかるこの番組のクオリティは恐ろしく低かった。カメラワーク、テロップ、スイッチングなどアウトプットの最終段階でなんとかうまく整えられていたインターネット上のustream配信に比べると、当日の収録はカオスそのものだった。しかし、「視聴者」がTVに求める本質がエンターテイメント性だとすれば、この収録は間違いなく「成功」だったといえる。自分たちとスタッフを極限状態に追い込むことで生み出される(?)あの一体感、連帯感、そして恍惚感に満ち溢れた彼らの表情は、巧妙に作り出された「曇りなきホンモノ」だったろう。その場にいたほとんどはその空気に飲み込まれていたというべきだと思う――そう、「巧妙さ」に対する違和感を抱えている人々さえも、その気持ちの一方で「飲まれていた」ことは否定できない。ここに展示されているのは、その「成功」の痕跡であり記憶である。

しかし、現場が「成功」したかどうかというのは、彼らの作品が「成功」かどうかということともたぶん違う。(彼は覚えていないと思うが)中崎さんは以前、「『現場の失敗』と『作品の失敗』は別次元」と口にしていた。とすれば、彼らにとって「現場の成功」という点と「作品の成功」という点もまた別の次元である。否、「点」というより「角度」というのが正しいのかもしれない。見る角度、切り取る角度によって、全く異なる現象として立ち現れるという多面性が、ナデガタの作品を成立させる条件のひとつだからだ。しかし、パイプの足場で組まれた「客席」に突っ立って、俯瞰した距離感を保ちつつもラストシーンに没入しはじめていた僕は、「現場の成功」だけでも「作品の成功」だけでも、「ナデガタの成功」とは言えないような気分に浸っていた。あれ? 僕は「お客さん」として見に来ていたんだっけ? トークショーに出演しにきたんだっけ?

はたしてここにある展示物は、「痕跡」であり「記憶」なのだろうか? 通常それらは、現実をドキュメントしアーカイブ化したときに成立する、いわば「過去」でしかありえないものである。ドキュメントとは本来ライブのために在る。しかしあのとき僕たちは、ここにあるドキュメントのためにライブをしていたのではないだろうか? ライブされたあの恍惚感とは、ドキュメントのために生み出されたものではなかったか? となるとここにある記憶とは、未来のためにあらかじめ記憶されていたことになる。ライブがいかに記憶され、どのように物語られていくのかが、リアルタイム(=ライブ)で既に分かってしまっていた。ライブ/ドキュメントの関係がひっくり返されている。なにが起こるかではなく、どのように起こるかが彼らの問題なのだろう。

あれから僕は東京へ戻ってしまって、未だにこの展示物たちを眼にしていない。さっき電話で野田さんから伝え聞いたところでは、当日の「ライブのアーカイブ」が展示室で公開されているらしい。収録時間と同期して流されるこの映像はustream配信もされていて、そこでは視聴者がコメントで参加可能になっている。すなわち、「アーカイブのライブ」が行われている。番組のトークショーでナデガタと話したとき、山城くんは「まだどう展示したらいいか、どうドキュメントするか、何も見えていない」と話していた。しかし「何も決まっていない」ということは、既に決められていたと思う。 なぜなら、ライブは常にドキュメントに向かっていたから。ドキュメント/アーカイブとライブが"本末転倒"する物語は、あらかじめ記憶されていた。

小森真樹(芸術社会学、ミュージアムスタディーズ)

NIP_24our_komori.pdf